昭和26年(1951年)4月2日に大阪市福島区大開町に鍛冶屋が創業をしました。
2代目社長となる坂口康一が地元の大開小学校に入学したときでした。
ちなみにこの小学校のすぐそば(100m余り)に大阪府立西野田工業高校があり、後に専務となる興津繁蔵も入学しました。
さらにはその2つの学校の間にパナソニックの創業者松下幸之助さんの創業の地があり、小学校の歴代父兄会会長に名が残っていました。
そんな町で従業員は総勢5名で開業。坂口鍛工所といいました。近江鍛工の正に発芽期です。
創業者の坂口曻、興津繁蔵、その父の興津音松ほかに2人……。
朝早くから鋼材を加熱するバーナーの音と各種の機械のモーター音が響きました。
今なら加熱前に素材の切断という工程が入りますが、当時は火床と呼ばれる粉炭を練って作った小さな炉にバー材をそのまま加熱し、ムトンと呼ばれるドロップハンマーでぶち切り、そのまま各種の工具を使ってリングにする……というものでした。
プレスもリングロールもありません。正に職人芸の世界でした。
「工場」は今のイメージとは全く違い木造……。戦前の建物で周辺には空襲の後の焼けた「広場」がいっぱい。
建物は以前から「鍛冶屋」が使っていたものでした。そこにあったボードドロップハンマー(ムトン)を使っての操業(創業)でした。
「木造」と言っても「木」で作った建物…と言うだけの、今では想像もできない「工場」でした。
昼は青空、夜は星空がのぞいているという恐ろしく年代モノ、という気がしました。
作業は「ムトン」の周りに4人ほどが取り囲むように行います。焼けた素材に柄のついたポンチを置いてムトンでたたく。手許が狂うことも多く、ポンチがあらぬ方向に飛ぶ……。
興津顧問(現在)によると、近所の外科病院には大変お世話になったそうです。何か安全な良い方法がないか……と常に思ったそうです。
またムトンは大きな鉄の塊を樫の板(厚い棒状の平木)をローラーで引っ張り上げ落とします。
其の板が良く擦り減ります。消耗品ですから板の取り換えは重要な作業。板はハンマーの根本に差し込んでありますが、抜くのが大変な作業だったようです。工場の片隅にたくさんの「ムトン木」が積んでありました。
今のようにヘルメット・メガネや防塵マスク・安全靴のような出で立ちではなく、当時使っていて今は使われなくなったのは「前垂れ(前掛け)」という相撲取りの化粧回しのようなものだけ。
箸で焼けた材料をつかんで作業、しかもハンマーで何度もたたくのでスケールは飛ぶし熱い!前垂れは結構使い勝手のいいものだったそうです。