昭和31年(1956年)坂口鍛工所は「近江鍛工株式会社」として法人化されました。
その頃にアマダさんのバンドソーを導入、たぶんアマダさんの初号機のタイプ。それ以来アマダさんには各種の要望を聞いて頂きお付き合い頂いています。
西淀川区東福町(当時)に淀川工場が稼働し始めました。
ムトンによる鍛造でしたがリングロールについて試行錯誤して試作ミルを作り始めました。何度も失敗を重ね壮大なスクラップの山を築きました。
作ったリングの失敗でなく失敗の機械のスクラップの山を……。
昭和30年代は作業に熟練度が必要で、且つ作業時の危険性の高いムトンからプレス機への切り替え時期になりました。
色々なタイプのプレス機が試され検討されましたが、万陽さんのレバープレスが採用されました。
300トン、600トン、1,000トン。そして3,000トン……と、いずれも初号機を使わせていただき今に至っています。
万陽さんはお付き合いを始めた頃「大研発條」という名の会社で創業者の塩川正造さんがよく見えられ、当社の創業者に説明。
私のオヤジが「塩川さん、造ってみなはれ」で「商談成立!」そんな機械好き人間がわが社を作ってくれました。
余談ですが工業炉メーカーの大協耐火さんやウチノさんも色々知恵を絞っていただきました……。
「こんなものが作れる設備が欲しい…」という希望に各社が応えて頂いたからこそ、今のわが社があります。
後に製品が大型化するにつれて油圧プレスが導入されるようになりました。油圧プレスは600トンから始まりやがて6,000トン、8,000トンそして10,000トンと大型化していきました。
昭和30年代後半になんとか稼働にこぎつけた自社製のリングミルも40年代には創業者が次々繰り出すアイデアと難題を興津繁蔵と吉本征治の2人の技術ブレーンが設備の改造、改良を行い鍛造方案の研究を進め、実現し解決しました。三菱ダイナパックという超高速鍛造機も導入しそのスピードに対する鍛造技術も身につけました。
昭和36年(1961年)には大津市瀬田の地に現在の本社工場が竣工、翌年正月から稼働を始めました。当然この工場も「ムトン」が活躍しておりました。
最初は工場建屋は一棟、やがて第二棟、三棟と増設。クランクプレスによる小物リングの型打ち鍛造も始めました。
300トン、500トン、600トン、800トン、1,500トンのクランクプレスの5ライン。いずれも小径のベアリングレースを主にした鍛造ラインでした。
やがてこれらのプレス型打ちラインはリングロール鍛造に集中するため撤退しました。
昭和42年(1967年)には信楽町多羅尾に信楽鍛造株式会社を開設、後に農林水産大臣となる岩永峯一さんが社長を勤めました。
アマダさんのバンドソーによるステッキ加工を始めたのもこのころです。
昭和49年(1974年)には山梨県に甲府工場を開設、関東への足がかりとなりました。